奧社道・越後道など 中社から奧社に向かう奧社道、また越後に向かう越後道、及び、中社から山道を通って鏡池を経由し、奧社参道の中程・随身門に出るコースを紹介します。

    中社→女人堂跡→比丘尼石→長明火定の地→日本六十六社一の宮→稚児の塔→展望奧社遙拝→奧社
中社駐車場の山側の道を進むと女人堂跡に出ます。礎石から推測すると三間三面の建物で、女人禁制だった奥院を女性達はここから遥拝したといわれています。
明治4年に戸隠神社になると、女人禁制が解かれたのでお堂もなくなりました。
ここは奥院道と越後道の分かれ道でもあり道標には、
 文化五年辰
  右 ゑえちごみち 
  左 お(於)くの(能)ゐん
 九月吉祥日   村越義光建之
とあり、廃仏毀釈の影響で、この碑の梵字も削られています。

   中社→女人堂跡→比丘尼石→長明火定の地→日本六十六社一の宮→稚児の塔→展望奧社遙拝→奧社

女人堂跡からバス停公明院入口を直進し、奥社へ行く道をたどると、女人禁制を犯して奥院に入ろうとした尼僧が石になったという比丘尼石があります。

中社から黒姫山の麓を通って柏原方面に向かう道を越後道(戸隠山道)といいました。途中から奧社への道に分かれ、また越後道の先に戻る道が男道(奧院道)です。

   中社→女人堂跡→比丘尼石→釈長明火定の→日本六十六社一の宮→稚児の塔→展望奧社遙拝→奧社

平安時代、戸隠山の住僧で法華経の持経者だった釈長明の「火定」
(かじょう)の跡が公明院の一角にあります。長明は永保年間(1081~84)、25歳から無言のまま横にもならずに行を続け、最後は生きながらに身を焼き、兜率天に上る火定を行いました。

火定とは仏道修行者が、火の中に身を投げ入れて死ぬことで、兜率天へ上ることを願うことも、極楽往生を願うこともありました。土に埋められる土定もあります。

  中社→女人堂跡→比丘尼石→長明火定の地→日本六十六社一の宮稚児の塔→展望奧社遙拝→奧社
文化8年(1811)、戸隠栃原にある大昌寺に和尚瑞応は、長明と自分の両親の菩提を弔うために法華経六十六部を書き写し、箱に入れて地中に埋めました。そこに法華経六十六部供養塔を建て、周りにそれぞれ一基ずつ日本六十六国の一の宮を安置しました。
六十六州とは全国六十六ヵ所の霊場のことで、そこに法華経を一部ずつ納めて巡礼する行脚僧がいました。ここでは六十六ヵ所の霊場をその国の一の宮と見立て、ここに参拝すれば、六十六国すべてを廻ったことになります。

   中社→女人堂跡→比丘尼石→長明火定の地→日本六十六社一の宮→稚児の塔→展望奧社遙拝→奧社

古道に沿って石塔と板碑が三つ並んでいます。
石塔には応永(1394~1428)の年号が刻まれていますが、それぞれ別の時代のものだと推測されます。

案内板には「妻にきた男からの艶文を、字の読めない夫に代わって読んだ養子の子供が、夫婦仲が壊れることを心配してただの手紙のように読んだ」とありますが、子供は戸隠で修行中の身で、昔は孝子と称えられたとのことです。

   中社→女人堂跡→比丘尼石→長明火定の地→日本六十六社一の宮→稚児の塔→展望奧社遙拝→奧社

稚児の塔の先で左の車道に出ることなく、坂を上ると午王嶺と呼ばれるエリアに到着します。
ここは邪魔するものがなく戸隠山をはっきりと拝むことができます。
そのまま進めば奧社入り口です。

ここは戸隠山を望む一番良い絶景ポイントかもしれません♪

  女人結界碑 越後道(徒歩で念仏池にも行ける)

寛政七年(1795)6月の建立で「右 奥院中院 両道女人結界 左 中院へ女人道 於当山本坊新建之 願主 山中為之進義」とあります。

「右 奥院中院」は奥院を経て中院へ行く道で男道と呼ばれていました。
「女人道」は奥院に寄れない女性たちが越後から中院へ行く道で女人堂跡に続いています。 仏教は修行の妨げとして女人を嫌いました。しかし戸隠が寺院から神社になったので明治4年に女人禁制は解かれました。

  念仏池  越後道(女人結界碑から徒歩で行けるが、自動車沿いにある)

キャンプ場入り口近くにあり、親鸞上人が戸隠に参詣したときに通ったという小さな池です。

上人が「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるとブクブクと勢いよく泡が立ち、声を低くすれば泡の勢いが弱まったことから「念仏池」と名付けられたと言われています。いまでも池の縁で飛び跳ねると池の底から泡が噴き出します。
念仏池の石碑には「安住院」現:安藤旅館とあります。

  種池 黒姫山登山道沿い・徒歩20分

黒姫山登山道の途中にあります。戸隠神社から離れていますが、6月の中の巳
(み)の日にここで種池祭が行われます。

戸隠信仰は農民の信仰に支えられ、東日本を中心に江戸時代には村々に戸隠講が組織されました。日照りの時には村の代表が九頭龍さまに祈願し、この池からお水を貰って帰り、村で降雨を祈りました。

流れ込む川もない種池です。

   足神社 → 硯石 → 鏡池 → 天明稲荷 → 随神門

ここから見る荒倉山はなかなかの景色で、その荒倉山に鬼女紅葉が立て籠って、平の維茂の軍勢と戦ったと言います。

紅葉の手下、女賊おまんが戦いの後に、硯石に溜まった水に映った自分の形相の恐ろしさに出家したとか、この水で手習いをしたなどともいわれています。

  足神社 → 硯石 → 鏡池 → 天明稲荷 → 随神門

磨かれた鏡のように戸隠連峰の姿を映し出す鏡池です。標高が高い戸隠は寒冷であるため、水を温めてから田に引く「温水ため池」が造られましたが、鏡池もその一つで、紅葉の名所でもあります。

戸隠は昔から修験道の山として発展してきましたが、ここから眺めると山伏ともいわれた修験者が修行をするのにピッタリな荒々しい山の姿が見てとれ、西窟などの修行の場も見えます。

   足神社 → 硯石 → 鏡池 → 天明稲荷 → 随神門

戸隠最後の修験者といわれる公明院の姫野公明師が建立。善光寺平の今井氏の長が戸隠の人塚に鎮まるとの霊告を受け、山谷を跋渉
(ばっしょう)すると、ここに天命稲荷として祭祀せよ、との霊告があったという。

この稲荷の近くに相対した若い女人と女の修験者らしき像がある。公明師関係のものと思われるが、地元の人にも詳細は不明。

戸隠古道 宝光社地区 神道・火之御子社 中社地区 奧社道・越後道など 奧社